伊雑宮 ― 志摩の磯部を探検(1)
2024年4月16日-17日の2日間、三重県志摩市にある伊雑宮を中心に周辺エリアを探検してきました。
近鉄上之郷駅で下車し徒歩で回ります。
一ヵ所目は駅から徒歩3分、伊雑宮へお邪魔しました。
本ページの構成
皇大神宮別 伊雑宮(いざわのみや)
まず最初に訪れたのは志摩国一之宮の伊雑宮。
伊雑宮は皇大神宮(伊勢神宮内宮)の域外にある別宮で、「遙宮(とおのみや)」として崇敬を集めています。
https://www.isejingu.or.jp/about/outerbetsugu/
御祭神
天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)
いわゆる内宮に祀られている天照大御神の御分霊です。
天照坐で ”あまてらします”
ちょっと初見では読めないお名前ですね。
御由緒
創立は約二千年前、第十一代垂仁天皇の御代。
垂仁天皇の在位は紀元前29年から西暦70年。弥生時代の中、後期にあたります。
紀元前って聞くと原始人?とか思っちゃいますが、すでに神社の祭祀がおこなわれていたんですねー。
御由緒書きには
『倭姫命世紀』は、皇大神宮ご鎮座の後に御贄地を定めるため倭姫命が志摩国を巡行された後、伊佐波登美命が豊かな稲を奉り、この地に神殿を造営したと伝えます。
と書かれています。
倭姫に稲穂を奉ったのは真名鶴じゃなかったっけ・・・
御食国志摩
御贄地(みにえどころ)とは皇居や神宮に奉納する贄(食料)を採集する場所の事。
志摩国は海産物が豊富で古代からの海洋民族である磯部氏の根拠地という事もあり、平城京や藤原京跡からも志摩国の海産物に付けられた木簡(木の荷札)が大量に出土されています。
ここで出てくる磯部氏とはいったい誰なのか。
伊佐波登美命だから登美(富)の一族?
五十部だからスサノオの一族?
九州との繋がりが強い海洋民族だから安曇族?
うーん、ミステリアスぅ~
このあたりの謎はもっと勉強して調べてみようと思います。
斜めに生える木々たち
まずはこちらの木々をご覧ください。
木というのは一般的に斜面にあっても天に向かって垂直に生えようとします。
なぜなら斜めに生えてしまうと自重を支えることができず根元から折れてしまうから。
しかし、この境内では斜めに生えている木々がたくさんあります。
(画像は2枚だけですが他にもたくさんありました)
ちなみに磁場がおかしいと、捻じれて生えたり、斜めに生えたりするらしいです。
ネットで調べると伊雑宮は磁力のない、いわゆるゼロ磁場らしいという記事も散見されました。
実際に斜めに生えた木を見ると普通ではないものを感じますね。
ゼロ磁場はコンパス(方位磁石)が狂うらしいので、次の旅からはコンパス必携で臨もうと思います。
巾着楠
入ってすぐ右側、宿衛屋(社務所)の近くに巾着楠と呼ばれるクスノキがあります。
根元が球根のように丸々と太っていて、中に何かを飲み込んでしまっているのではないかと思わせるような不思議な形をしています。
なぜこのような形になるのかは分かっていないそうですが、何らかのホルモン異常によるものらしいです。
こちらもゼロ磁場の影響なのでしょうか・・・
謎の磐座
本殿(正確には古殿地)の向かい側に少しせり出した場所があり、小さいながら磐座のようなものがありました。
拡大してみると何か文字が刻まれているようにも見えます。
ペトログリフだったら震えますね!
形的に要石のようにも見えます。結界でも張っているのでしょうか。
勾玉池
参道の裏側に勾玉の形をした池があります。
絶対に入ってはいけないそうです。そう言われると何かが隠されているのではないかという陰謀論のスイッチが入ってしまいます。
誰か池の水抜いてくれないかなー。
その他境内の写真
神武参剣道場
伊雑宮入口の向かい側に、とても雰囲気のあるお屋敷が建っていました。
門が閉まっていて中には入れないのですが、何とも言えない重厚な雰囲気を醸し出しています。
こちらは登録有形文化財の神武参剣道場という武道場だそうです
入口の看板には天之磐門顕正奉賛会と書かれていました。
小泉太志命
道場の設立者は小泉太志命(こいずみたいしめい)という方で、戦時中は天皇家護持、皇居防護に尽力されたそうです。
その方法がすごい!
真剣で一日に3万3千回の素振りを行い、天皇に降りかかる邪気を払っていたのだとか。
そして、ただ空を切っているはずの剣が邪気に当たると刃こぼれを起こすのだそうです。
その業によって皇居を爆撃しようとしたB-29を上空から消し去ったという逸話もあるみたいですよ。
三剣の剣
屋根の鬼瓦部分にある3本の突起は「三剣の剣(御剣の剣)」といって、人を斬らない剣の象徴だそうです。
一本の刃なら人を斬れますが、三本の刃では斬れないのだとか。
小泉太志命が剣の達人でありながら平和主義者だったことがうかがわれます。
天八衢神社
敷地内には天社国宮 天八衢神社と書かれたお社もありました。
天八衢(あめのやちまた)とは、天孫降臨の際に四方八方に通じる分かれ道があり、そこで猿田彦が待っていたという場所の事らしいです。
伊勢参宮奉賛献燈会
なんとなく気になって見ていたら
門柱に六芒星が!
以前、伊勢神宮の内宮と外宮をつなぐ御幸道路に同じく六芒星が刻まれた灯篭が建っていましたが、それがこの伊勢参宮奉賛献燈会という団体の建てた物だそうです。
(現在は老朽化で撤去されています)
伊勢参宮奉賛献燈会は、先に紹介した小泉太志命が、伊勢の御幸道路に六芒星の灯篭を設置するために寄付者を募って設立したようです。小泉太志命は伊雑宮の表神紋は花菱、裏神紋は六芒星という説を提唱しており、伊勢三宮をそれぞれ、伊雑宮が太陽、内宮が星、外宮が月と崇めたことで伊勢参宮(三宮)奉賛献燈会と名付け、六芒星をシンボルマークに掲げたようです。
伊雑宮神訴事件
詳細は端折りますが、江戸期に伊雑宮の書庫から聖徳太子が編纂したという「先代旧事本紀大成教」なる書物が発見されました。そこには本当は伊雑宮が天照大御神を祀っていて、内宮は星、外宮は月だと書かれていたようです。
その内容を編集した本が江戸で売られ大ヒットしたことで幕府の耳に入り、先代旧事本紀大成教は偽書認定されて発禁に、関係者が島流しにあったりという大事件になったそうです。
伊勢参宮奉賛献燈会も先代旧事本紀大成教の内容を支持したのでしょうね。
このお話、どちらが正しいのか私には判断はできませんが、オカルト脳としては今後、新事実が発見されないかチョットわくわくしていたりもします。