ツノがある人に会いに行く 第一話「氣比神宮」 

2024年3月16日いよいよ北陸新幹線が敦賀まで開業するにあたり、JR西日本tabiwaでは2月14日から3月14日までの間、北陸おでかけtabiwaパスを従来の2,480円から980円というとんでもない破格値で販売し、なおかつ平日も利用可能にするということで、同じ北陸でもなかなか行く機会のなかった敦賀の探検に行ってきました。

氣比神宮

まずは越前国一之宮にして北陸総鎮守の氣比神宮から。

御祭神七座

・ 伊奢沙別命 いざさわけ(氣比大神)
・ 帯仲津彦命 たらしなかつひこ(仲哀天皇)
・ 息長帯姫命 おきながたらしひめ(神功皇后)
・ 日本武命 やまとたける
・ 誉田別命 ほんだわけ(應神天皇)
・ 玉姫命 たまひめ
・ 武内宿禰命 たけのうちすくね

社伝、社にまつわる記紀などは概ね仲哀天皇(または先代の成務天皇=ヤマトタケルの弟)とその奥さんの神功皇后、そして息子の応神天皇に深く関連しています。
第26代天皇の継体天皇は応神天皇の5代孫にあたり、また継体天皇の出身地に近い事からも何だか大人の事情が感じられますね。

あ、あくまでも私の勝手な解釈ですよ!

社名・神名の氣比とは何か

主祭神である氣比大神や氣比神宮の名前となっている氣比(ケヒ)の由来については色々な説があるようです。

食物神説

最も一般的な説として、ケヒには食べ物を司る意味があるとする説です。

古事記の仲哀天皇記では応神天皇が皇子の頃に氣比大神から食べ物(イルカ)を賜ったとあります。ケは食べ物、ヒは霊の意味であり、食物神としての神格を表しているそうです。また日本書紀にはケヒを笥飯と書かれており、笥は食べ物を入れる器、飯は字の通りメシ(食べ物)を表すそうです。

名前替え説

こちらも古事記の仲哀天皇記に、氣比大神と応神天皇が名前を交換したというお話(名前易え)があります。

応神天皇が皇子から皇太子になるため、武内宿禰とともに敦賀を訪れた際、太子の夢枕に氣比大神が現れ、名前を交換したいと言いました。
太子がそれに応じたため、以降は太子が誉田別という名を名乗り、氣比大神は伊奢沙別命を名乗りました。

このお話から、名前易えの易え(カヘ)が音変化してケヒとなったとする説です。
ちょっとこじつけ気味の説かなあと思いますが否定はできませんね。

地名説

日本書紀では仲哀天皇が敦賀に行幸し、滞在した宮を笥飯宮(けひのみや)と記しています。

これに関しては地名の笥飯はどこから来たのかという疑問が残りますね。

九社之宮と神明両宮

・伊佐々別神社(いざさわけじんじゃ)
・擬領神社(おおみやつこじんじゃ)
・天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじゃ)
・天伊弉奈姫神社(あめのいざなひめじんじゃ)
・天利劔神社(あめのとつるぎじんじゃ)
・鏡神社(かがみのじんじゃ)
・林神社(はやしのじんじゃ)
・金神社(かねのじんじゃ)
・劔神社(つるぎじんじゃ)
・神明両宮(しんめいりょうぐう)

氣比神宮の境内にある九の摂社末社と神明両宮。

この中にとても気になる神社さんがいくつかあります。

伊佐々別神社(摂社)

応神天皇の名前易えの翌朝、笥飯の浦(けひのうら)一面に大量のイルカが打ち上げられていて、それを見た応神天皇は大神が御食(みけ)を与えてくれたと思い祀ったとのことですが、なぜお祀りしているのが荒魂なのでしょう。一般的に荒魂を祀るのは自然災害などを鎮めるためですから、大量のイルカが打ち上げられているのを見て大神の御神威を畏れ、災いを鎮めるために荒魂を祀ったと考えた方がしっくりきますよね。

擬領神社(末社)

造(みやつこ)というのは国(敦賀国)のトップにあたる役職です。
先代旧事本紀(旧事紀)には成務天皇の時代、吉備臣の祖である若武彦命の孫、武功狭日命(たけいさひのみこと)を角鹿国(つぬがのくに)の造に定めたとあります。
日本書紀では若武彦命は敦賀の地名の由来となったと言われる都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の20代孫と言われています。
一方で古事記では第七代孝霊天皇の段に日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと=孝霊天皇の御子)の後裔氏族として角鹿海直(つぬがのあまのあたい)が記されています。
なんかそれぞれに色んな名前が色んな時代に登場していてカオスですが、地名だったり役職名だったり一族の名前だったりするのでちょっと整理が必要かもしれません。

天伊弉奈彦神社・天伊弉奈姫神社(摂社)

イザナギ・イザナミっぽい名前ですがよく見るとイザナ彦・イザナ姫でした。
続日本紀には天利劔神、天比女若御子神、天伊弉奈彦神が氣比大神の御子であると記されています。
出雲の因佐神社(いなさじんじゃ)は出雲風土記では伊奈佐乃社と記されていて出雲の国譲りで登場するのも伊奈佐浜です。伊奈佐と伊佐奈(伊弉奈)、またお得意の文字入れ替えだったりして。

松尾芭蕉も見たかった名月

日本百名月に認定されている「氣比神宮にのぼる月」
http://japan100moons.com/regist/616

松尾芭蕉は、おくのほそ道で中秋の名月を見るために敦賀を訪れました。しかし当日はあいにくの雨。楽しみにしていた氣比の名月を見ることができませんでした。
そこで詠んだのが以下の句。

名月や北国日和定めなき
月いづく鐘は沈める海の底

現代みたいに「また来ればいいや」という訳にもいかない徒歩の旅。名月を見られなかったのがよほど悔しかったのでしょうね。

ちょっと可哀想な芭蕉のエピソードでした。

御朱印などなど

その他境内で撮った写真いろいろです。
せっかくの参拝なので御朱印もしっかりいただきましたよ。

第一話はここまで

今回で三度目となる氣比神宮参拝。主目的にしていたのは次回お届けする予定の角鹿神社で、正直言うと氣比神宮はついで程度にしか思っていませんでした。
(写真の少なさが物語っています)

ところが実際に訪問してみると、これまでの二回で見落としていた九社之宮や氣比という名前の由来など、興味深い情報が盛りだくさんでわくわくしっぱなしと同時に新たな疑問がたくさん生まれてしまいました。

そんな中私が感じたのは仲哀天皇系統のエピソードを強く推しているということ。

日本書紀では孝霊天皇時代の記述があるのに対して、古事記では成務天皇(13)ー仲哀天皇(14)-(神功皇后)-応神天皇(15)の流れを強調しています。
そして時代は下り継体天皇(26)の血筋は応神天皇まで遡ります。

うーん、臭いますねぇ。

継体天皇の正統性を高めるために盛っているのか
孝霊天皇時代に敦賀を治めていた王が成務天皇時代に力を失ったのか

謎は深まるばかりですが、古代の日本にとって敦賀という土地はとても重要な場所の一つだったのでしょう。

北陸新幹線延伸で何かと注目を集めている敦賀ですが、今後の展開も楽しみですね!

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