古代出雲王家と出会う ― 志摩の磯部を探検(2)
磯部旅2カ所目は伊雑宮から徒歩3分。
上之郷駅を降りた時には雨でしたが、名古屋駅で買った駅弁を食べている間に雨も止んでくれました。この頃にはすっかり晴れていて傘をささずに歩けましたよ。
本ページの構成
倭姫命𦾔蹟地(やまとひめのみこときゅうせきち)
ここは倭姫命世紀で一株の稲から千本の穂が生えていたと記されている場所。
倭姫は伊佐波登美命にその穂を抜かせ皇大神宮に献上します。
そしてこの地を千田(ちだ)と名付け伊佐波登美命の神宮を建て皇大神宮の摂社としたのが伊雑宮だそうです。
古代の品種改良
明治期に入るまで米の品種においては人工的な交配技術がなく、自然交雑や突然変異で生まれた良い変種を見つけて培養していたようです。
一株から千本というのは大げさかもしれませんが、倭姫の時代にも優良品種を抜き取って培養するという概念があったのかもしれませんね。
伊佐波登美命と古代出雲王朝
昔この場所には千田寺(ちだじ)というお寺が建っていました。正式名称は杵築宮御光大神宮で、古くは杵築神社(きつきじんじゃ)と呼ばれていたそうです。
島根県の出雲大社も明治になるまでは杵築大社と呼ばれていましたよね!
また、伊佐波登美命の登美は古代出雲王家の富家に使われた名前。
ナガスネヒコも古事記では登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)または登美毘古(とみびこ)などと書かれています。
これはもうビンゴで良いですよね!
隠された倭姫の謎
大正末期、千田寺にあった大楠を樟脳用に伐採し根元を掘ったところ天井石(石棺の蓋)があらわれ、その下から鏡や勾玉などが出てきたそうです。これは倭姫の遺跡に違いないと盛り上がっていたところへ官憲(警察)がやってきて出土品を持ち去り、地元住民に緘口令を敷いたそうです。
その後は発掘調査をされることもなく、何事も無かったかのように埋め戻されて更地にされました。
大正末期といえば、明治から続く天皇を中心とした国家体制において、記紀(古事記、日本書紀)の信憑性を貶めるような存在はご法度の時代。おそらく記紀に書かれていた事とは違った物が出てきてしまったのでしょうね。
遺跡を無かった事にしてまで隠したかった真実。
誰か開示してくれないかなー。
上之郷の石神
倭姫命旧跡地から歩いて5分ほどのところに志摩の三大石神 上之郷石神があります。
サークル上に配置された巨石群。
巨石と呼ぶにはちょっと小ぶりなサイズかな?
それでも出雲大神宮や眞名井で見た巨石群に通ずる雰囲気がありました。
伊佐波登美命が出雲族だとしたら、この巨石群でおこなった祭祀も出雲系なのでしょうか。
本当にこのあたりの事情は謎が深いですね。
その他いろいろ
この後は風呂屋の谷で妄想入浴して次の目的地へと歩みを進めました。