吉備津彦神社と温羅退治の真相-古代吉備国探検1ヵ所目
2023年3月26日-27日の2日間、かねてより興味のあった古代吉備国の痕跡をこの目で確かめるべく、岡山旅へ行ってきました。
金沢から岡山までは朝7時の電車に乗っても最短で行けば11時前には到着できるのですが、せっかくならとハローキティ新幹線に乗るためにわざわざ時間を遅らせ、岡山入りは13時前となってしまいました。
本ページの構成
備前国一宮 吉備津彦神社
ホテルに荷物を預けて最初に向かったのは「吉備津彦神社」
備前国一宮です。
主祭神は大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)で
第七代孝霊天皇の第三皇子だそうです。
※晴れの国おかやまですが、まずは禊の雨で清められております。
吉備津彦さんが住んでいた
ご由緒には
古代より当社背後の吉備の中山には巨大な磐座(神が鎮座する岩)・磐境(神域を示す巨石群)が有り、山全体が神の山として崇敬されてきました。
第十代崇神天皇の御世、四道将軍として遣わされた大吉備津彦の命もこの山に祈り、吉備国を平定し、現人神として崇められました。庶民とこの国を深く愛し、永住された吉備の中山の麓の屋敷に社殿が建てられたのが当社の始まりです。
とあり、現地のガイドさんも「ここに吉備津彦さんが住んでいた」とおっしゃっていました。
社殿は何度か焼けていて、現在の本殿は元禄10年(1697年)に完成しました。
三間社流造りのとても美しい本殿。
吉備国の神社建築が伝統としている流造りの正当な姿を示しているそうです。
桃太郎の元になったお話
また、ご由緒には
昔話「桃太郎」は吉備国平定の際の吉備津彦命(桃太郎)と温羅(鬼)の戦いがもとになっているといわれています。
ともあり、吉備津彦 vs 温羅(うら)の戦いが桃太郎の元になったと言われています。
ちなみに温羅とは百済から戦を逃れて渡ってきた皇子だそうです。
温羅と民衆は良好な関係だった?
岡山へ行く前に予習していたとき、温羅と民衆は仲良く暮らしていたというお話をみかけました。
温羅は地元の民衆に製鉄や鋳造など様々な技術を教え、地元の民衆は食べ物のお世話をしたりと良好な関係を築き、ふもとの阿曽郷の祝(ほおり:神職の娘)が温羅と結婚したというお話。
しかし記紀では、民衆を困らせていた温羅を吉備津彦に頼んで退治してもらったというお話になっています。
どちらが本当なのでしょう・・・。
大和朝廷が吉備国を治めるための大義名分(考察)
私的には、「温羅が民衆を困らせていた」というのは吉備国を平定するための大義名分だったのではないかと考えました。
古代史を調べているとけっこうあるんですよ。
大義名分がない状態で攻め込むという事は、わかりやすく言うと「侵略」です。
それでは世間的に受け入れられないから、悪者を退治したというお話にしてしまう。
そう考えると、今も昔も人間という生き物は同じことを繰り返していますね。
などと考察していたのですが、現地へ行ってびっくり!
ガイドさんの衝撃発言
ここが吉備津彦さんの家だったと教えてくれたガイドさんから驚きの事実が!
「吉備津彦さんと温羅さんは仲良しで、民衆と一緒に仲良く暮らしていたんですよ~」
戦うどころか、仲良しだったとは。
自分の中に戦っていないという選択肢はなかったので、良い意味で裏切られた感じでした。
となると温羅退治のお話は、大和朝廷が威厳を示すために創作した?
大和朝廷、盛っちゃってますね~(笑)
という落ちで吉備津彦神社を後にしました。
あとがき
ちょうど岡山旅へ出かける直前に、とある考えが思い浮かびました。
神社という存在や、僧侶による開山という行為は、それ以前にあったアニミズムやシャーマニズムといった自然崇拝的宗教観の破壊と上書きではないのかと。
途中で出てきた由緒書きにも書かれているとおり、この神社が出来る前は背後の山全体が神として祀られており、山頂には磐座信仰の跡があります。
わが石川県を代表する白山比咩神社さんも、祈り崇めるだけの存在であった霊峰白山を、泰澄という僧侶が開山したことで誰もが登れるようになった。つまりそれまでの宗教観が上書きされたわけです。
こうした宗教観の上書きについて、以前は、支配、征服されたことで上書きされたのだろうと考えていました。ところが今回、吉備津彦さんと温羅さんは戦っていないという考え方に触れ、旧石器時代から縄文、弥生と時を経るとともに、様々な渡来人と交わり、文化とともに宗教観を受け入れていった我々祖先の素晴らしさにも触れたような気がしました。