金沢にコシヒカリのご先祖様「大場坊主」というお米があった!

江戸時代に金沢で栽培されていたお米がコシヒカリにとって無くてはならないご先祖様だという情報を見つけたので調べてみました。

コシヒカリの系譜と大場坊主

コシヒカリの系譜をたどると、父方の祖母の先祖に大場坊主という品種があります。

線が一本で繋がっているところは、まだ2品種を掛け合わせる技術が確立されていなかったので、農家(個人)が自然交雑や突然変異で生まれた変種を見つけて選抜したり、公的な研究所で優良品種だけを選別して新品種を開発しています。

藩政時代の年貢米

藩政時代(江戸時代)北陸地方では巾着という品種のお米が主流で栽培されており、加賀藩の年貢米にも指定されていましたが、のちに大場坊主が主流となり年貢米にも指定されたそうです。

西川長右衛門と大場坊主

江戸時代末期の頃、大場村に西川長右衛門(羽柴吉平)という、農業の研究にとても熱心な方がいました。

嘉永6年(1861年)早朝、長右衛門はいつものように田んぼを見回っていたところ、偶然、坊主頭のようにツルっとした芒の無い稲穂を発見しました。その穂を一本抜き取って持ち帰り、3年かけて培養したものを近隣の農家に分け与えたそうです。

当初は吉平坊主と呼ばれていましたが後年、地名をとって大場または大場坊主と呼ばれるようになりました。

それまで栽培されていた、巾着をはじめとした原種のお米には稲穂に芒(のぎ)という棘のようなものがあり、収穫の際、除去する手間がかかる厄介なものだったので、大場坊主の普及によりコメの生産性が大幅に上がり、加賀藩の年貢米として指定されるまでになったそうです。

大正九年に発行された石川県河北郡誌にはこのように記されています。

石川県河北郡誌(国立国会図書館デジタルコレクション)

吉平。県内は勿論、近く福井・富山より遠くは奥羽に至るまで、無上の米種として栽培する大場坊主は、嘉永六年六月十九日大場村の農民吉平の発見にかかる。吉平は吉右衛門の二子にして、深く農事に志あり。此日吉平昧爽田園を巡りて稲の発育を見るに穰々として其穂を垂れ、豊兆既に明かなり。當時北國の農家栽培する所の米種は之を巾着といひ、中稲にして穂に棘あり。然るに吉平は偶然これ等と異なるものあるを認め、其一穂を抜き帰りて詳に之を検するに、従来嘗て見ざる良種なり。吉平大に喜び、培養両三年にして益効果を得、遂に之を隣民に頒つ。人呼んで之を吉平坊主といひしが、後転じて大場又は大場坊主と号し、五十年後に至りては加賀米の最上種となるに至れり。

江戸時代のご飯を体験

なんと!この大場坊主、今でも食べることができます!

食べてみました

コシヒカリと比べるとツヤと粘りが少なくパサパサした感じがしました。
かといってハリがないわけではないので、歯ごたえはしっかりあります。

味は悪くないと思いますが、何というか良い意味で古くさいというか、なるほど昔の人はこんなお米を食べていたんだという体験ができました。

もちろん江戸時代に生きていたわけではないので正解かどうかはわかりませんが。

そうそう、なんとなく体に良さそうな気がします!
胃もたれしないし、甘すぎないし。

粘りが少ないのでおにぎりには不向きですが、たくあんとの相性は抜群ですね。
当時を知らないのについ「なつかしい~」と言ってしまいます。

ちょっと癖になりそう

【追記】大場坊主の新米を手に入れました

新米を手に入れたので新しい記事を書きました。

故西川長右衛門翁の碑

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